防災と生き方を学ぶ ~1年生「愛のともしび事業」遠藤さんから学ぶ会~

 

東日本大震災の時に、宮城県南三陸町で副町長を務めておられた、「遠藤健治さんから学ぶ会」を1年生で実施しました。今も南三陸町にお住いの遠藤さんですので、Zoomをつないでお話を聞きました。先週17日の事前学習に続いての学習です。

大震災以前から、おおよそ38年くらいの周期で大きな地震が起きてきた南三陸町。そのための備えは、町としてもされてきたそうです。震災遺構として現在も当時のまま姿をとどめている南三陸町の防災庁舎も、想定される津波は6mほどだったので、津波が来たら、2階や3階に上がって対応することを想定して建てられていたそうです。ところが、想定を超えるマグニチュード9.0、震度7、南三陸町の震度は6弱の揺れに襲われ、さらに想定を大きく超える10m以上の津波がくるとの情報が南三陸町の防災庁舎に届いたとのことです。防災無線で町民に避難を呼びかけていた職員とともに、遠藤さんも防災庁舎の屋上へと避難されました。しかし、最大16.5mの津波に襲われ、防災庁舎もアンテナを残して津波にのまれ、当時54名屋上に避難していたのに、津波が引くと10名しか残っていなかったそうです。

また、当時の小中学校の様子も教えていただきました。3月11日、中学校では卒業式の前日。町の小学校も、数日前に新しく建てられた体育館の引き渡しが行われ、卒業式で使われる予定だったのに、地震と津波で壊滅的な被害を受け、一度も使われることがなくなってしまいました。当時学校には小中学生がそれぞれいたそうですが、先生方の判断で高台に避難して、難を逃れたとのことでした。ただ、学校のグラウンドに避難された町の方々は、津波にのまれ、命を落とされた方が多くいらっしゃったそうです。

学校の体育館は避難所として使われていました。学校も使えなくなってしまったために、30Km離れた廃校で授業を再開したそうです。小学校で卒業式が行われたのは、4月になってから。避難所にいた方々も卒業式に一緒に出られたとのことでした。

副町長として、その後も町の復興に尽力された遠藤さん。生徒たちに、「自分の命は自分で守る、人のやさしさや思いやりの心のありがたさ、いろいろな人との出会いと交流が支えになったこと、そして、大切なことは『あのときを忘れない』こと」だと語ってくださいました。

代表して3名の生徒が質問しました。

・避難した屋上に津波が来たときは、必死だった。

・防災バックには、水や食料ももちろん大事だが、衣服もあるとよい。そして何より、「自分の命は自分で守る」という意識を入れてほしい。

・地震が来た時に一人だったら、とにかくまわりの状況から、どうすればよいかを的確に判断して行動してほしい。

最後に、生徒たちにぜひ、南三陸町に足を運んでほしいと遠藤さんはおっしゃっていました。復興も進み、美しい自然が多くあります。

初めて知ることに驚いた生徒も多くいました。あきらめずに力強く歩んでこられた遠藤さんのお話から、生徒たちはいろいろなことを感じ取っていました。

 

 

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