歴史

1 開校から太平洋戦争終了まで

本校は、昭和15年4月那加尋常小学校から分離独立し、那加第二尋常小学校となりました。このころは太平洋戦争中で、川崎重工で働く人々の家族の移転により、地域には多くの転入者がありました。教職員数17名、児童数820名でした。同じくして、那加第二尋常小学校は那加第二国民学校に名前を変更します。
本校のグランド内の西側の小庭園の中にある二宮尊徳像は、この年に保護者の方々から寄付されたものです。この像を寄贈された方は、通学途中に国鉄高山線の貨物列車にはねられてしまい、命を絶った子どものお父さんでした。二宮尊徳像の傍らには「皆さんの成功をお祈りします」と書かれています。
その後、さらに転入者は増え続け、学校の児童は増えつづけます。このことについて、各務原戦時体験~通史編~には次のように述べられています。

 那加第二尋常小学校 雄飛ケ丘保育園だけでなく、小学校教育をみても、人口の増加のすさまじさが理解できる。昭和一二年(一九三七)に、那加村は川崎航空機の社宅が完成し、人口が急増したことへの対応として、那加駅前に、那加尋常高等小学校の分教場を設立している(那加町史)。そして、那加村が町制を施行するとともに、昭和一五年(一九四〇)那加第二尋常小学校として分離独立をする。この当時、那加第二尋常小学校に通っていた横山進氏は、「途中で転校してくる子が、たいていは神戸からだった。他の組にも神戸から転入してくる子がいて、教室がせまくなっていった」と、子ども心に転入児童の多さに、人口急増を感じていたという。

昭和20年6月22日アメリカ軍による空襲によって、学校は戦火をまぬがれたものの、校区には1トン爆弾と250キロ爆弾がたくさん投下され、大きな被害を出しました。 陸軍の飛行場があることと、それにかかわる軍需工場があったことで、焼夷弾よりも爆弾攻撃にあったのでした。

2 昭和20年代

新しい教育制度のもとで、那加第二小学校も生まれ変わりました。終戦後、子どもたちの表情が暗いのを見た教師たちは、「綴り方で子どもの気持ちを明るくしていこう」と考えました。そして、昭和22年に文集の「つくし」を創刊しました。
創刊号に当時の校長先生の加藤新吉先生は次のようなことを書かれています。

 学校文集「つくし」は伸びる
朝の光をいっぱいに浴びた明るい応接室に、転入学の女の子が深くいすにかけて、さっきから話を聞いているが、時々不安そうな目つきで窓の外を眺める。窓越しに見えるのは、バットを振る者、フットボールに戯れる者、鉄棒に下る者など、はちきれるような元気を思い思いの遊びに現して余念のない運動場の光景である。付き添いの父親からは外地引き揚げの苦心談が後から後からと続く。涙ぐましい思い出の重苦しい面持ちの中に固い決心のひらめきがある。・・・中略・・・さっきまでの広い運動場には一人の姿も見えない。耳をそばだてると二階の教室は国語の授業が韻文らしい朗読の声がする。少し離れて1年生の教室からはからはハイハイの声が盛んにして算数の答えほぼ間隔的に織りこまれて聞こえる。それも一教室だけでなくて隣の教室も同じであるらしい。ハイハイにも異色がある。かくて静かな校舎の中に新生日本をになう子はすくすくと生い立つのだ、伸びるのだと思うとき、力強さと有難さとがひしひしと身に迫るものを感ずる。客の去った応接室には木せいの一枝が美しい色と匂いを誇っている。
文集「つくし」昭和22年創刊号より

 昭和26年、学校がマンモス化し、那加東亜町に那加第三小学校が本校から分離独立します。

昭和29年、学校給食が始まります。当時の那加町では、本校と那加中学校に最初に給食調理室ができました。那加町史には、これについて次のような記述があります。

「昭和29年1月給食室の増改築工事が予算39万円で竣工。2月8日から給食開始」

 2月8日の給食の献立は、

「ミルク(脱脂粉乳)、パン(コッペパン)、味噌汁」というものでした。

3 昭和30年代

 昭和30年には、現在の校歌が制定されます。

この歌には、子どもたちが明るくたくましく伸びていってほしいという願いがこめられているそうです。

 本校の校歌

作詞永縄半助先生
作曲小木曽薫先生

雲雀ヶ丘の 朝風に
かおる 若葉の濁りなく
高い理想の 火をつらね
われらは学ぶ一筋に
ああわれら那加第二小学校

あふれる胸の 喜びを
匂うみどりに はずませて
若い力の  手をつなぎ
われらは伸びる すこやかに
ああわれら那加第二小学校

 昭和34年1月町議会で本校のプール竣工が可決され総工費211万円で、5月30日落成しました。
プール開きには、元オリンピック選手の兵藤秀子さんに模範水泳をしていただき、1147名の子どもたちは大喜びでした。

この年は、伊勢湾台風が襲来した年でした。
9月26日午前9時警報発令。全児童を下校させたあと、教職員で襲来に備えましたが、停電、屋根瓦・壁の損害・樹木の倒壊、電線の切断が相次ぎ大きな被害を出しました。

昭和38年4月、各務原市が市制を施行

本校は各務原市立那加第二小学校と改称しました。

4 昭和40年代~充実する校内の施設

昭和40年代は、本校がますます発展する時期でした。様々な施設があいついで建設されたからです。

 昭和45年 第1期鉄筋校舎建設工事が完了します。46年には、第2期の校舎建設が完了し、すべて鉄筋校舎となりました。それと並行して、通学路の整備も進みました。

この年は、大阪で万国博覧会が行われ、6年が修学旅行として見学しました。昭和47年、ことばの教室(言語治療教室)ができ、本格的に言語指導を個別におこなうことができるようになりました。

そのほか、ひばり山、東門など学校の施設がどんどんと充実してきた時期でした。

この時期には、本校は、統計教育の県の指定を受け、昭和41年、社会科統計教育の研究発表会を開きました。昭和48年には、岐阜県学校保健大会の会場校になりました。

5 昭和50年代

昭和51年、相次いで集中豪雨がおきました。9月9日、前日からの台風17号の豪雨により、境川の水かさが増し、境川からの水が逆流し、運動場へ浸水はじめました。

そして、校舎も床上まで浸水してしまいました。

(この年9・12水害がおこり、長良川の堤防決壊による大惨事が起こっています。)

この年、岐阜県教育委員会指定研究実験学校となり、国語・算数・音楽・体育の研究を行いました。

これ以降、55年まで研究を続けます。

昭和55年岐阜日日新聞(現在の岐阜新聞)の岐阜県優秀校に選ばれました。

昭和56年には、図書館利用指導部門で優秀賞を受賞新体育館が完成します。

昭和58年、韓国小学校派遣教員の訪問を受けます。

市道徳研究指定の発表会を行いました。

昭和59年には、教科における道徳性の高まりを追求する研究の成果を発表しました。

これらの一連の研究は、昭和51年の県実験学校指定以来、約10年間発展させながらおこなってきました。

6 昭和60年代

昭和60年には、10年間の研究の成果をふまえて、国語科教育の指導に重点をしぼり、研究を進めます。そして、昭和62年文部省・市教委指定の研究指定校として、国語科教育の研究を進め始めました。

昭和63年には、岐阜県で「ぎふ中部未来博覧会」が開催され、本校も社会見学として参加しました。

 

7 平成元年~平成10年(教育研究充実)

平成元年には、国語科教育の研究の成果が評価をうけ、博報賞を受賞しました。また、各務原市教育委員会の「夢おこし」により、本校は、歌手の田中星児さんをおまねきして、各務原市民会館で大コンサートを開きました。

その後も、国語科教育の研究を続け、教育キャッチアップ事業で、平成6年に発表をしました。

平成7年より、平成11年の全国小学校社会科研究協議会岐阜大会会場校として社会科・生活科の研究をすすめました。

その間には、各務原市教育委員会による教育トライアングル事業で、開かれた学校づくりをめざして、様々な取り組みを展開しました。

 

8 平成10年代(算数科の教育研究に取り掛かる)

平成16,17,18年度には,各務原市教育委員会の指定による オンリーワン事業が行われ,算数の研究,特に習熟度別少人数指導のあり方について実践を積んできました。

平成19,20,21年度には,各務原市教育委員会の指定による 桜丘中学校区「心豊かでたくましい人づくり推進事業が行われ,算数の研究を継続し,20年度の11月26日に公表会を持ちました。

 

9 平成20年代

平成21年度は,岐阜事務所指定の「研修校」を受け,研究主題「筋道立てて考え,表現する力を育てる算数科の指導のあり方」を設定し,11月20日に教育公表会を持ち,全学級が公開しました。

平成22年度も引き続き 岐阜教育事務所の「研修校」指定として算数の研究を継続しました。11月26日に公表会を行いました。

平成22年3月末~9月中旬にかけて,北舎の耐震補強工事が行われました。工事期間中は中庭が使えず,児童の出入りは運動場を回って行いました。北舎は外壁もきれいに塗装し直されたのでまるで新築された校舎のようですが,内装はほとんど変わりませんでした。

平成25年6月~12月にかけて,南舎の耐震補強工事、太陽光電パネル設置工事が行われました。南舎の外壁がきれいになり、理科室や調理室のテーブルも新しくなりました。ろうかの張り替えも行われました。
11月19日 各務原教育創造事業「クリエイト21」の教育公表会を行いました。

平成26年7月~11月にかけて、南舎・北舎の冷暖房設置工事が行われました。11月13日 岐阜教育事務所「研修校」公表会を行いました。

平成28年度から全校の研究主題を算数から各教師の専門教科にしました。平成28年度は、算数部(低学年、高学年)、社会部、国語、体育・図工・音楽部、特別支援部の6部会に分かれて研修を進めました。岐阜事務所指定の「研修校」として引き続き取り組むことにしました。平成31年には社会科の全国大会の会場校にもなる予定で、社会科の指導の在り方についても研修を進めていくこととなりました。

平成29年 11月21日には、岐阜教育事務所指定研修校及び各務原市教育充実ステップアップ事業公表会を開催しました。プラタナス公園にある木の幹の中心が空洞になっていることが分かり、20本ほど木を伐採しました。その代わり、プラタナスの木など9本を植樹しました。

平成30年 11月1日には、小学校社会科研究協議会の全国大会のプレ大会を開催しました。社会科専門の7人の先生方は、社会の授業を公開しました。県内から多くの社会科の先生方が参観されました。また、他のクラスでは、市の教科研の授業研を行い、全部で350名ほどの先生方が集まられました。1月25日にはまとめの会を開催し、文部科学省初等中等教育課程課教科調査官にご指導をいただきました。その実践は、調査官が雑誌に紹介されました。夏休みには、体育館の床を張り替え、体育館が明るくなりました。

 

10 令和元年~

令和元年 11月1日には、小学校社会会研究協議会の全国大会を開催しました。3年生以上の8クラスが社会科の授業を公開しました。新指導要領に沿った授業公開を行ったこともあり、全国から多くの社会の先生方が参観されました。社会科の授業を公開しないクラスは、担任の先生が研究している教科を公開しました。子ども達と一体となって素晴らしい授業を公開することができ、参観者の先生方から感嘆の声が聞こえてきました。PTAの皆様にも大いに協力していただきました。廊下の床の張り替え、廊下や階段などのペンキ塗り、教室内のパイプ補修、体育館のトイレの洋式化など学校内全体の整備が進みました。